『たかが選手』と言う言葉
あれだけ軽蔑した「たかが選手が」と言う言葉が、口をついて出そうになったのは我ながらどういうことか。
「番長」と人は言うが、この行動が番長の仇名に相応しいのかどうか。堀内監督が選手とのコミュニケーションが不足していると言うけれど、他の選手達の話もしたのだろうか。我が身を置いてまず子分後輩を立てる、それでこそ番長の名に相応しい。あるいは長者として、堀内監督と選手達との間を持つ立場を買ってでも出るべき立場でもあろう。たとえ双方から睨まれ嫌われるとしても。その行動は「番長」の名に相応しいとは言えまいが。
「巨人の」清原だからこそ、人気もあろう。だがその表書きを捨てたとき、どうなると言うのだろうか。佐々木のように、新庄のように、松井(小さいほう)のように、独力で輝く光が今だ内に備わるか。
颯爽たる西武の清原は、少年の日のヒーローの一人だった。あんなにも格好良かった清原は、もはや保護され、さらには自ら保護を求めすらする存在と今は目に映る。
推測として麒麟が老いたのか、事実として自分が少年ではなくなったのか。
いずれにせよ、悲しい事である。
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