思いつくことかずかずあれど
特にきっかけもなく、駅のホームでなんとなく思いついた事をザウルスで書いてます。怒りと自己正当化は巴の関係にある。
イコールかどうかはよくわかりません。ほら、「そんな自分にはらがたつー」って名言もあることですし。
自己正当化は怒りを生み、
怒りは自己正当化を根拠付ける。
怒ってる人はまあ、自分自身に突っ込みをいれたりはあんまりしないものです。噴火がおさまってある程度しょげてから、自己正当化強化の効果時間が切れると、どうしてあんなこと言ったかなあ、と凹んでみたりするわけですな。
してみると、「熱い心と冷たい頭脳」と言う言葉はこのことをも指しているのかも知れません。クールになろうぜみたいな。
自己正当化が怒りを生むとなると、「なんだか具体的によくわからないものへの怒り」とかは、自己正当化のトリガーとしての怒りなのかも知れません。特に理由もなく怒る、とか言う人は、怒ると言う行動そのものが理由なのかも知れない。と。そういえば義憤は私憤、とか言う言葉もありましたっけ。
時々こういうことをふっと思いつく事がありまして。きっともうこういう事を理論づけている人がいるに違いない、暇を見つけて系統立てて勉強したいなあ、と思うのですが、なかなか思うばっかりで思うに任せぬであります。心理学の本とかわりと好きなんですけどねー。ああもう。
別口では「人が専門用語を使いたがるのは、話し相手がどの程度、自分と同じ知識の偏りを持っているか(言い方を変えれば、話し相手がどの程度自分と同質で、どの程度異質なのか)を探るためである」と言うのもあります。
知識的な距離感、と言う言い方をしたこともありました。同じ略語や徒名や符牒が通じるグループは身内であり、略語が通じないグループは外様であり、ある程度通じるグループはボーダーライン上なのです。
専門用語は人を見下している、と言うよく聞く意見は、この考え方の裏側からの傍証だと考えました。こういう意見は即ち、疎外された、と言う意識から生まれたものですからね。
たぶん言語学とかの世界では常識の範疇に入るような事なんでしょうけど、ちゃんと勉強したことがないので「なんでしょうけど」止り。シニフィアンとシニフィエの説明を理解しようとしたところで、あー、すいません。素直に言って飽きちゃいました(汗。
系統立って勉強したいものですな! まずは読書ノートをつけるところからだ!(迂遠だ)
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