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2006.11.10

雑感:アトムと鉄人と、ロボットの背負う時代(☆☆)

 いつかちゃんとまとめたいと思っていることの雑感として。なんかこれ、いつか書いたような気もしますが。

 あくまで日本におけるロボットのアーキタイプと言うか、フィクションとしての起点を上げるとすれば、まずもって「アトム」と「鉄人28号」が上がります。
 アトムは自律型、鉄人28号は(なんか時々自律してるくさい動きをしますが)操縦型。
 アトムは天使のような(山本弘の講演の内容に沿って修正するなら、「人間が想像する天使というものに似た」)心を持つロボット、穢れなき存在としての人造人間。鉄人の持つ属性は、「いいも悪いもリモコン次第」と云う言葉に集約されている通り、ロボット自体は善悪の判断を行わず、あくまでそれを行うのは操縦する人間である、と云う事にある。
 これはそれぞれの原作者の性格と云うか、世界観の反映なのかも知れません。手塚治虫がロボットに託した、科学への期待がアトムなら、横山光輝がロボットに抱いた科学への懐疑が鉄人なのかも知れません。
 実際、横山光輝作品では、例えば完全な自我を持つ三つのしもべ(特にポセイドン)が、時にバビル二世に、時にヨミに操られ、善悪両方の振る舞いを行います。ロボット=科学は善悪はなく、それを使うのはあくまで人間である、と云う意識が、そうさせたのかも知れません。

 その精神はそのままマジンガーZでも踏襲されています。元々、マジンガーZはロボットではなく、変身ものとしての側面を持っている通り、「ある日君がもし、人間以上の力を持ってしまったとしたら」「マジンガーZがあれば、お前は神にも悪魔にもなれる」と云う言葉は、科学の理非は、それを使う人間に依存する、と云う事を、鉄人よりもよりどぎつくアピールしていると思います。
 さて、マジンガーやゲッターの時代は、ロボットはあくまでオンリーワンであり、一つのロボットを動かすのに一つの理論、一つの超エネルギーが必要でした。ゲッター線で動くロボットはゲッターロボであり、光子力エネルギーで動くのはマジンガーZです。テキサスマックやダイアナンAも設定上はそれらの動力で動いていましたが、大きな意味でのカテゴライズはされていませんでした。「ゲッター線で動くロボット」を指す、(作品中での)一般名詞は無かったのです。

 特に有名なところではガンダムにおいて、これは一転しました。「モビルスーツ」。ミノフスキー核融合炉と云う超エネルギーで動くロボットは、作中でガンダムただ一機ではありません。それどころか、ガンダムは「敵のMSを倒すために作られた新型のMS」であり、モビルスーツは敵味方の両方が使う、ロボットの一般名詞化だったのです。
 ゲッターやマジンガーの時代の科学認識においては、科学とは「ひとにぎりの科学者が掌握しているもの」であり、また人間の理性によって制御しうるものでした。しかし、ガンダムにおいてそれは既に一転しています。科学は「そこにあるもの」であり、善も悪も、その同じ科学を使いえます。そして、作中で善が悪を圧倒することがあるとしても、それは政治や軍事、あるいは個人の資質と云う、科学技術の管理とは全く違うレイヤーでの問題でしかないのです。機械が普及し、科学は個々人の善意によって、正しい方向へと使い得る、と云うものではなくなってきていました。

 電子レンジを使えても自慢にはなりませんが、電子レンジの仕組みを説明出来る人は意外に少ないかも知れません。まして、電子レンジを作れると云う人は、その道の専門家か好事家でもない限り居ないでしょう。科学は個々人の資質でコントロール出来るものから、今そこにあるものになり、ついには、理屈を飲み込めなくても使えるもの。高度に進化して、魔法と区別のつかないものになりました。
 人はここに至って、改めて科学を畏怖と恐怖の対象にしはじめたのかも知れません。ロボットの動力は「謎の動力」になりました。動力の謎は世界の謎に直結していることも珍しくありません。疑似科学的な説明すらもはや求められなくなる作品が出る一方、ほとんどのロボットに、共通の特徴が現れてきました。顕在的にせよ潜在的にせよ、製作者の意図によるにせよ、よらないにせよ。もはや自分の意思で動き、自分の意思でパイロットを選ぶようになったのです。
 「なんだかよくわからないけれども恐ろしいもの」と云う科学への漠然とした恐怖は、ひとまわりして、ロボットに神格にも似た自我を与えるようになりました。ロボットは「向こうの世界のもの」であり、(たとえ人間に作られたものであっても)、人間の上位に位置する審判者なのです。横山光輝の懐疑は、ひとまわりして「天使のごときロボット」に戻ってきたのかも知れません。しかし、これは古人の夢見た、科学と人間のあるべき姿なのでしょうか。「天晴れ!カッポーレ」と云う漫画で、どんなものでも作り出せるイメージ世界の話がありました。主人公はストーブやさまざまな機械を作り出し、それは一応動きます。しかし、二つに割ってみると、中身はがらんどう。「なぜか判らないけど動いている」のです。
 フィクションのロボットの神格化は、こういった中抜きの科学認識と抜きがたく結びついている気がします。

 細かい補足的な点では、現代的なロボットの面白い点は、量産型メカのプチカスタム化にあるんじゃないかとか、マジンガーやゲッターといったダイナミック系ロボットは、たくみに上記の三段階を踏んで時代とともにアップデートしてきているとか、歴史学における加上説(古い時代の出来事と看做されている神話ほど、実は成立年代が新しい、と云う説)は、フィクションのロボット開発史にもうまいこと当てはまるんじゃないかとか。色々こう。

 いつかちゃんと資料をまとめて、調べてみたいものです。

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コメント

 私は時代性みたいなものもあるのではないかと考えています。
 高度経済成長期の「科学が人間を幸せにしてくれる」と信じられていた時代から、70~80年代の「本当にそうだろうか?」という時代を経て、現在では「必ずしも科学文明が人間を幸せにするわけではない」という風潮になっていますからねー。
 というかむしろ現代は、いわゆる“エコロジー”に代表される「自然回帰」の時代になってんじゃないかと。そんな時代性もあって、“現代科学の延長上にある究極の機械”的なロボットは廃れてしまったんだと思います。
 しかしやっぱりロボは男の子の夢で需要があるし、でも科学的ロボは時代に合わない。ということで今の“非科学的(神話的)ロボ”に落ち着いたんじゃないでしょうか。
 上から見ると一周回って同じ所に帰ってきたように見えるけど、横から見るとちょっと違う、みたいな。螺旋?

 ……と、この記事を読んで思いましたよ、センセー。

投稿: あるみか | 2006.11.13 19:52

 フィクションは、時代を映しますよね。アイアンマンも共産ゲリラと闘ってた時代もありましたし。
 「アメリカ人は映画で、昔はドイツ人を、その後はロシア人を殴り倒していた。冷戦が終わって、『インディペンデンスデイ』で今度は宇宙人をグーで殴り倒した」って言ってた人もいましたっけ。

 自然回帰と云うか、自然崇拝の空気は確かにロボットに影響していますね。その観点はすっぱり抜け落ちてましたです。戦隊で云うとジュウレンジャーあたりからですよね、多分(笑)。

 個人的には、今よく人口に膾炙する「自然」は、それそのものが一種のフィクションだと思っているくちではあるのですが。

投稿: sn | 2006.11.14 21:41

 >自然崇拝
 たしかに世にあふれる天然なんとかやらエコなんちゃらを見てると、宗教臭い匂いがしてきますよね。言ってる人も聞いてる人もあんまり理解してないんじゃないかなー、という感じを受けます。“自然”が独立してあるのではなく、“機械文明(科学)とは相反するモノ”というものすごく漠然としたイメージとして、自然という言葉だけが便利に使われているような気がします。
 スーパー戦隊にせよハリウッドにせよ“わかりやすい悪”がないと正義の味方はやりにくいんでしょうけど、機械自体に罪はないでしょうに。自然は自然、機械は機械で全然別物で存在していて、科学に至っては単なる考え方の1つに過ぎないと思うんですけどねぇ。

   心ある人よ 科学を畏れよ
   その力はすべてを合わせたより大きく また素晴らしい
   人よ その手に触れ その与えるものを受け取るがいい
   すべてはまさに 科学する魂に宿るのだ

 巨大ロボットは心正しい科学の子ですよ!

投稿: あるみか | 2006.11.15 00:21

 結局、「なんかよくわかんないけどよさげなもの」と云う中身が、機械文明から自然文明にスイッチしただけ、と云う感じがするんですよね。
 田園暮らしが人間のあるべき姿だと云う意見に反対はしませんが。全ての人間がその恩恵に預かれるわけでもなければ、それに適応できるわけでもないですしねー。

 隣の芝生が青いのは、隣にあるからなんだよ、って云うことで(笑)。

投稿: sn | 2006.11.16 21:33

>個人的には、今よく人口に膾炙する「自然」は、それそのものが一種のフィクションだと思っているくちではあるのですが。

それを端的にあらわした台詞が、Gガンダムの
「人間もまた、天然自然の一部!」なんじゃないかという気もします。

投稿: Ryoichi | 2006.11.19 15:05

 人間と自然とを対立項に立てる、って言う考え方そのものがどうなんだろう、ってところですよね。
 ことによっては、人間>自然って言う意識の人もいるわけですし。

 昆虫の脳の話のほうに振られちゃいますけど、昆虫は昆虫で、成育環境に合わせて実に高度に進化してるんですよね。どんな動物も、生きている環境に合わせて実にうまく最適化していて、そこに高等下等と云う区別はそもそも成り立たないわけで。
 そういう意味では、「種が最適化されている生育環境を保護する」って言うごく狭い意味合いでは、環境保護は正しいと思うんですけどね。

 人間は自然に守られている、そりゃもう物凄い勢いで。って言う謙虚さは、見失わないようにしたいですねー。そういう意味で、人間も天然自然の一部なのだと思いまするる。

投稿: sn | 2006.11.19 22:55

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