老いはさだめ、さだめは死- 医学と芸術展(☆☆☆)
リンク: MORI ART MUSEUM [医学と芸術展].
これは六本木ヒルズのおんもの壁(というかなにかの扉)に貼ってあった写真。
この写真の作品、つまりジル・バルビエ作「老人ホーム」が見られる、ってんで、散歩がてらと極めて軽い気持ちで向かった医学と芸術展ですが、行ってみて、こう、予想してた以上に重い気持ちで帰ってきました。
医学と芸術- とありますが、バルビエの作品のような芸術寄りのものはどちらかと言うと三七くらいに少数派で、展示物は芸術的性質を帯びている、医学の分野に属するものが多数を占めています。
たとえば、最初に入場してまず見る事になるのは、ダヴィンチのものなどを含む、各種の解剖図です。解剖学的な観点で書かれたリアルなものから、どちらかと言うと絵画寄りなものまで結構多数。この時点でなかなかに重いです。元々そういう絵が多いのか単にチョイスの問題なのか、妊婦とか胎児の解剖図が多めなのも、なかなかに心理的にハードヒット。
解剖図と言えば想像しがちな「剥き林檎」的人体のモノクロ図などもきちんとありますが、昔の人は違う方向で細部に拘りがあったらしく、剥かれた皮がきちんと身体とつながった状態で描き込まれていたりして、結構ショック。タイツかなにかを脱いだみたいに、自分の足の皮を持ち上げた状態の男性とかが書いてあるわけです(もちろんモノクロのスケッチですが)。この分野で最強だったのは、手の指のスケッチで。腱が見やすいように持ち上げられた状態で書いてあるわけですが、その腱を持ち上げて固定している台とか金具までしっかり書いてあって、うわあぎゃー痛い痛い痛い。……えー、すいません。そういう観点で見るものじゃないのは解ってるんですが。
昔の人はいろいろなものを作っていて、たとえば解剖図だと、本の挿絵で人体のところだけめくり絵みたいになっていて、めくるとだんだん身体の中の構造が出てくる、みたいなのものあります。同じベクトルの立体物だと、内臓とかがパズルになってるちっちゃい人形とかですね。こういうものの中に混じって、予想していてしかるべきだったんですが、やっぱりありましたプラスティネーション。すいませんこればっかりは僕ダメなんですほんとに。百八十度回頭。
気を取り直して次のブースは、医学に使われた用具類や当時の情景を残した絵画などのコーナー。昔のものから最新のものまで各種さまざま義手義肢義足(大隈重信が使ったと言うものも)、当時の医療用具あれこれ。エベレストにイギリスの登山隊が持っていった薬箱なども。中には最新のものもあり、たとえばホンダの体重支持型歩行アシストユニット(歩くスツールみたいなやつ)も、動作映像といっしょに静物展示されていました。
ここでもうひとつ強調されていたのはメメント・モリの伝統で、そのつながりなのか、ダーウィン所有と言う杖の先には髑髏がついていたりします。そうそう、一目見ただけだとなんだかさっぱり解らなかったんですが、昔のレントゲン機ってのもありましたよ。
最後のブースで、ようやく《老人ホーム》とご対面。アメコミの著名なヒーローが、登場した年から順当に歳をとっていったら今頃は、と言うコンセプトで作成された作品で、キャプテン・アメリカ、ワンダーウーマン、スーパーマン、Mr.ファンタスティック、ハルク、そしてキャットウーマン(コスチュームはバートン版準拠)が出版社の壁を越えて一同に会しています。
「グリーンジャイアントとスーパーマンしかわからないねー」「でもスーパーマンは歳とらないんじゃないかな」と、女性の二人連れが話していましたが、違いますそれグリーンジャイアント違う。ハルク。超人ハルク。まあ、あんな痩せちゃってたら無理もないか。あとそういう企画のコンセプトを根底から覆すようなおもしろい事を言われても。
それはともかく、実物は写真よりもさらに面白いものでした。これ、作品はともかく、中で使う本とかはアレンジしてもいいことになってるんでしょうね。積んであるのは日本語の本とか新聞とかだったんですが、Mr.ファンタスティックが数独をやってたり(しかも拡大コピーで!)、寝ているキャットウーマンの前に積んである本の一番上のタイトルが「おひとりさまの『老い』」だったり、その秀才的な底意地の悪さに感心しました。わかっててやってるなあ。
ことのついでに言うと、この作品、両者のトップクラスのヒーローが集まってる割に(まあ、スパイディもアイアンマンもいませんけど、アイアンマン中の人が年取ってもわかんないし、スパイディは他の面々に比べてひとまわり若いし)、バットマンがいないんですよね。決してバットマンの存在を忘れているわけではない。なにしろキャットウーマンはいるんですから。けど、バットマンは、ここには居ない。
で、考えてみると。バットマンって、「老いたるバットマン」って言う話は結構多くて、しかも名エピソードが多い。ダークナイトリターンズはもはや挙げるまでもありますまいが、バットマンフューチャーだってそうだし、キングダムカムも年代は不明ながらそんな感じですよね。してみると、ありうべからざる属性である「老い」が、こんなふうに皮肉な感情を誘う、つまり老いというものと表層的にであれ相容れない存在である他のヒーローと。老いた姿が決してカリカチュアとなるとは限らないバットマン=ブルースの違いみたいなものが、たぶんだれも意図してないところで読み取れてしまったみたいで面白みを感じます。まあ、女性キャラ増やしとこうか的なバランスの問題なのかも知れませんけどね。あとウルヴィーは最初から問題外というか門前払いなので居ないのがふつうです。あのひと今の時点で150歳かそこいらだし。
何を表していたのかはいまだに解りませんが、衝撃だったのはほぼ最後の展示物。
勤続で出来た木が、曇り硝子の六本木の街並みを背景になんの説明もなく展示されている。からっぽの病室を感じさせるような無機質な広い部屋に、展示物はそれと、あと壁際に二つほどあるだけ。なぜここに? これが? 「未来」をモチーフにした展示の部屋に?
妥当な解釈を求めてしばらく木ではない木を眺めていましたが、納得の行きそうな答えは手がかりも出てきませんでした。あれはなんだったんだろう。
フロイトが言うように、おおむね人間は己の潜在的な不死を信じています。それはつまり、「昨日生きていたんだから今日も生きている」と言う経験論です。決して油断しているわけではない、むしろ努力し、油断しようとしている。預かり知らない処で止める事もできず落ちていく、誰にも残量の測れない「残り時間」のこと、さらさらと静かな音を立てて減っていく生命のことを。
ブッダは盛大な宴会のあと、楽器を抱えたまま宴会場で眠る楽士達を見て死体の山を想起した。メメント・モリ、死を想え、と言う精神は、歓楽や芸術の最中に、死の断絶を想起させる骸骨を埋め込む事に結実した。たとえば『葉隠』では、毎朝己が死の状況を克明に具体的に思い描き、毎日、その日に死ぬことを前提として生きよ、と世に問うた。たとえとしては適当ではないかも知れませんが、それは死刑囚の生に表される生き方でもある。今日生きていたからと言って、明日も生きていられると言う事を保証されている訳ではないと言う事を、理念でも理屈でも理論でもなく、単なる現実として思い知っている。
世の人は、たいていはそうではありません。今日生きているから明日もある。明日生きているから明後日もある。観念の中で不死に近いほど無限に引き延ばされた生は、稀釈され、稀薄になり、しかしそれに対して問いかける事もしなくなる。努力して身につけた、油断と言う安寧の中に身を置けばこそ。
でも、それが自分自身に強いている錯覚であることを、いろいろな理由でいつか気付く事になる。身近な人に起きた不幸、損なわれた健康、あるいは、鏡を見た瞬間に気付いた白髪や皺に。
老いを気にする歳じゃあない、とは思うけど、少なくとも、もう確実に若くはないよな、と、会場を出ながら思いました。風に舞い跳び、吹き散る落ち葉。季節は秋、そして冬。ふう。
まあ、それを言ったら、リアル若い頃から「お前歳ごまかしてるだろ」って言われ続けてたんですけどね。いいじゃないか全員集合で停電したときの事覚えてても。
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