号外 号外 号外♪(☆)
号~外♪(ばぎゅーんと拳銃の音)。つまり号外とローハイドは音が似ていると言う話でですね。そんなこと言おうと思っていたら、肝心の号外を会社に忘れてきたでござる。
サッカー日本代表が決勝進出と言う事で、号外が朝がたに出ておりまして。会社最寄りの駅で一部受け取りました。起きた時は試合終了直後だったのに、通勤してる間に号外ができるなんて、予め準備はしてたにせよどんだけ早いんだ。
それはともかく、号外があるとつい受け取ってしまう。家を出る前に結果はかなり詳細に知っているはずなのに。号外というものが、ああ、自分は好きなのだなあ、と思った瞬間でした。
しかしなぜだろう? 新聞の号外って、究極的には情報が載っている媒体、って難しく言わなくても紙に過ぎない。欲しいのはそこに載っている情報であって、紙そのものではないはず。
ところが情報はすでに別ルートで手に入っていても、号外は欲しい。普通の新聞ならまだしも、号外であれば、そこに載っている情報は、特定され絞り込まれているものに違いないので、「取り漏れている情報」がそこに載っているとは考えにくい。そもそも、号外を貰った時点で「取り漏れている情報」なんてものを、別に期待して貰ったわけではない。
そう、そういう取り漏れている情報が欲しければ、普通のスポーツ新聞なりを買えばいいのであって、つまるところ号外を貰ったのは、(なんとなくと言う動機を覗けば)号外だから貰ったのに他ならない。
なぜなのだろう。号外は他の新聞と違うのだろうか。なにが号外を、情報が載った媒体以上の存在にしているのだろうか。
うまく言えませんが、逆に買えない、どこでも手に入るわけではない、と言う、なんて言うんだこういうの、逆ユビキタス性って言うか、いまうまいこと言おうとして特にそうでもなかった、つまり不便さ、非遍在性みたいなものに、格別の価値を見いだしているのでしょう。
ネットで情報はどこででもいつでも手に入る。でもこの「号外」は、そのとき、その瞬間に、そこか、もしくは何処か特定の場所(かなり多くのポイントでしょうが)にいないと手に入らないものであって、後から入手や再入手が困難なものである。
もちろん、決して不可能ではありません。例えばネットオークションで号外を手に入れる事は、たぶんできる。そこで非遍在性はある程度緩和されますが、それでも、「そのとき、それをそこで受け取った」と言う体験なり記憶は、売買とか取引とか出来るものではない。でもたぶん、投機的な事情でもないかぎり、号外を手に入れたい、と思う人の何割かが求めているものは、号外と言う紙の所有だけではなく、そういう体験の所有でもあるのでしょう。「この号外は当時手に入らなかったので、あとでオークションで手に入れたんですよ」と言うような、そういう形での体験の所有なのかも知れない。
人は、手に入りにくいものに価値を見いだす。
特にやろうと思わなくても、情報がいくらでも手に入る時代にあると、人は自分なりにカスタマイズされた情報、譲渡不能で属人的な情報、つまり記憶や体験に、より大きな価値を見いだそうとする。それがたとえば「庭の木にぼけの花が咲いたよ」とか言われても、なかなか自慢するほうもされるほうも気詰まりがしますが、純粋に属人的な体験であって、なおかつ周囲の人間も体験可能なものに、人は、ごめん大きく出すぎた、自分は価値を見いだそうとしているのかも知れません。だから号外とか好きなんだなきっと。
書いていてちょっと自覚が出ましたが、会場限定!とかミュージアムショップ限定!とかで、思わずぐらっとキてしまう心理って、たぶんこれにかなり近い気がしてきました。うえええ、なんだか実生活にぴったりシフトしたところに縮退してきたぞ。注意します。ええはい。
週末は美術館とかに行きたいなー。上記を踏まえてこう。
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