被責と自己愛(☆)
リンク: Amazon.co.jp: いつも「自分」だけ責める人 被責妄想は「うつ」の前兆 (角川oneテーマ21): 加藤 諦三: 本.
大凡言って、人間の脳というものは情報処理機関なので、入力された情報について取捨選択を常に行っている。僕らは真実を求めよ、真実を見よとは言うものの、肝心の真実は脳に入力された瞬間に、程度の差こそあれ、歪んだ補正がかけられる。もし歪みがなにもない人間がもしいたら、それはそれで不気味なものには違いない。
つまり人間誰でも、現実と微妙に乖離した「解釈済みの世界」だけを認識し、それに基づいて行動している。これを意識している人もいれば、自分が見て感じている世界こそが、即ち事実であり現実である、としか思わない人もいるわけですが、これがあんまりひどい乖離になると、ジョーカーになっちゃったりトゥーフェイスになっちゃったりして、ゴッサムシティに迷惑がかかるわけですな。
それはまあともかくとして、世界をどう解釈するか、と言う部分に関わってくるのがたぶん自己愛と言うもの。自分を愛すると言うのは響き的になナニですが、「イメージとしての自分自身」「認識の上であるべき自分自身」を、中から支える圧力、気圧のようなもの、と言えばいいでしょうか。自己愛が大きすぎれば、イメージとしての自己は肥大化しすぎて現実のその人から乖離してしまいます。逆に自己愛を否定するような事をされれば、その人はまさに自分自身を否定されたかのように感じる事でしょう。ユニークなのは、自己愛の適用される範囲は自分自身に限らないということ。自分の家族は自己愛の対象ですし、こだわりの趣味もまた、自己愛の対象です。自己の所属する集団、会社なり国家なり、あるいは民族にも転写される、と言ってもいいでしょう。「それを愛する自分が好き」なのかも知れません。
でも、まあ、一番解りやすい例を挙げるのなら、犬とか猫とかのペットでしょうね。「この子が何を考えているのかわかる」「心が通じ合っている」と言うのは、まさに自己愛の延長としての認識そのものだと思います。動物が可愛い最大の理由は、まずもって彼らが口をきかないからだ…… などと言うのがブラック寄りのジョークだと認められるのは、まさに自己愛のせめぎあいの領域についての認識であることが理解されているから、でもありましょう。
さて翻ってこの本で扱われているのは、「被責妄想」あるいは「被蔑視妄想」というもの。被害妄想に似てはいますが、積極的に他人が自分に害を及ぼすのではなく、自分になんらかの原因があり、それを他人がつねに責め立てている-- と言う認識に囚われる、と言う所に特徴があります。言うなれば、加害妄想に近いと言っていいでしょうか。自分がその場にいると、周りは不愉快な気分になるに決まっている、と言うようなものも、被責妄想の一つの変形なのではないか、と思います。
自己愛的な考え方で言うと、どういう解釈になるのかは非常に興味深いところですが、そういった方向からの言及はあまりありません(被責妄想の原因を幼児期の親子の関係に繰り返し帰しているところは、精神分析のほうの人なんだなあ、と言う気はすごくしますが)。自己愛が損傷に極めて弱い、と言う考え方なのかも知れませんが、なかなかしっくりと嵌らない気はします。この本そのものの論旨は非常に解りやすく(ある種しつこいほどに)書かれているので、そこのところは理解しやすいんですけども。なかなか深く考えるべきところです。
人につねに責め立てられている、と感じると言う被責妄想ですが、この考え方の恐るべきところは、人に責め立てられていることが自然な状態だと思うようになり、誰にも害を加えられていない状態に不安や居心地を感じるようになる、と言うところでしょうか。さらりと二度ほど書かれていますが、なかなか恐ろしい示唆に富む言葉です。ひさしぶりに小此木先生の本も再読してみようかと思うような、そんな一冊でありました。
--最悪の父親とは、恩着せがましい父親であるとか。それは上司であったり先輩であったりするかも知れません。桑原桑原。
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