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2011.10.16

悪の仔は己を以て正義と為す(☆)

 アメコミは脳筋だ、筋肉タイツが何でもブン殴って解決するだけで薄っぺらい、みたいな感覚を持っている人は多いと思います。
 しかし、例えば日本の特撮物などで、毎回毎回、確実なペースで悪人の殺害が行われている事を、ジョークではなく真剣に問いかけている人は(そういう視座が好きな人を覗いて)それほど多くない気はします。
 その問題を、「爆発しているのは、人ではなくて怪物だからいい」と言う形でヒーロー物は解決してきました。しかしそれは、「人だと見なされない者は、大義名分さえあれば殺してもいい」と言う考えではないでしょうか?

 これはトークを踏まえての私論なんですが、日本のヒーローは立脚点が「被害者」である気がします。
 加害者としての悪があり、その悪によって生み出された被害者。そして、その被害を回復することを目的とする存在、それが日本的なヒーローなんじゃないか、と。
 平和のために戦う、と言うのは、あくまで「加害者によって侵害された『平和と言う状態』を回復する」ことが目的なのであって、侵害と言う事実、被害者である、と言う事実が失われた時点で、ヒーローがヒーローたる由縁は消滅する事になります。

 そう考えれば、復讐者も平和のために戦うヒーローも、その目的を被害回復に置いている、と言う事で同根であり、「平和のために相手を殺す」と言う行動に、根本的な問いかけがない…… 特撮だって怪人は爆発して死んでるわけだし…… 事の説明にもなります。

 善の善たる由縁が被害回復なのであれば、悪の悪たる由縁は加害者である、と言う事に尽きるでしょう。もちろん人に害を及ぼす者が、悪であることに疑いの余地はありませんし、悪の組織は最初から世界征服とか加害を意図としているので、そこに問題はないと思います。
 この視座で曖昧なところに落ちるもの。それは、干渉と加害の境界線でしょう。よかれと思って他者に干渉し、その結果が加害となってしまった人は、どうなるのでしょう?
 明白な悪は加害者であるのに対し、善悪の境界にある存在-- 言ってる事に理由はあるけれど、それでもヒーローに打倒される悪-- は、加害者ではなく、往々にして干渉者なのでしょう。
 かつてのヒーローが悪に堕ちる。よく見かける図式ですが、それは被害回復を果たしたヒーローが、そのありようを模索した結果なのでしょう。
 ひとつの行くべき道として、周囲をよりよくしようと干渉者となった結果。それは日本的な解釈としては悪への道(あるいは「善の側に立った悪人」の道」)であり、善の善である者とは、他者に干渉せず、埋没していく者なのでしょう。
 「彼のやろうとした事は正しかった。だがやり方が間違っていた」と言う物語は実に多いですが、「正しいやり方」とは、それでは掘り下げられていったのでしょうか。「あれは間違っていた」と言う指摘だけが出てくる。そんなケースの方が多いのではないでしょうか。

 正義とは、結局のところ干渉者となる道です。そして、ついには加害者ともなりかねない道です。干渉者で留まるか、加害者ともなりえるか。それは正義と正義ではないものを分ける、厳しい分水嶺になのでしょう。
 そこのところに対する問いかけ、言わば「なにが正しいのか」に加えて、「どうやって正しい事を実現するのか」と言う、正義の方法論についての問いかけに対する執念。そういうものが、日米のヒーローの視座の違いなのかも知れません。
 考えてみれば、それはそうです。被害者の立場であり、被害回復が目的と考えれば。自分が被害者なのであれば、そもそも手段はすべて肯定されるべきものなのですから。
 干渉者か加害者かの違いは、主に手段に由来する。

 ブラックジャックの台詞じゃないですが、「正義か、そんなものはこの世にありはしない」って言う結論にどうしても落ち着く、というか、それで片付けてしまうことができる。悪がなければ正義なんてないほうがいい、でおおむね終わりにできる。相対的なものってことですよね。
 でも個人主義と言う考え方からいえば、悪があってもなくても、個人の理想型としての「正義の姿」って言うものは、必ずなくちゃいけない…… とまでは言えないものの、念頭にあるものなのだろうと。
 そういう意味では、正義とはなにか、って言うのは、アメコミにあっては、追求の手を緩めてはいけないテーマである、と言うわけです。
 悪の仔として、被害者としての正義も、もちろんあります。とはいえ、独立独歩たる、一歩間違えば加害者たりえる立場を自覚した位置にあって、なお危ないバランスの上を歩いて行こうとする正義の道もある。アメコミの正義論というのは、そういうものなのだと思います。

 社会の均一性、同質性を重視する考え方からすれば、個人の理想形は、社会の理想型の中に半分以上溶け込んだ形になる。少なくとも、干渉者ではなくなる。
 それに対する反発として、フィクションのヒーローはアウトロー的な、同質性からはじき出された存在として造詣されがちになる。それすらも、観察者であり漂白者であり、積極的な干渉を行うのに理由を必要とする存在なのではないか、と言う気がするのです。

 仮面ライダーがショッカーに改造されたように、日本式ヒーローの正義は悪を胚胎にして生まれる事が多いと思います。
 悪っていうのは、一つのやりすぎちゃった正義であって、それに対する個人的なカウンターとして、ヒーローの正義はある。だからしばしば、ヒーローよりも悪のほうが魅力的、なんて言われてしまう。
 してみると、加害者としての悪があるかぎり、被害者としてのヒーローは成り立つ。なぜならヒーローは「悪の影」、第一に、悪に対する対悪なのだから。そして、加害者は、干渉者は。しばしば、干渉すると言う行為そのものを以て、悪と見なされる。

 ……これって、フィクションに限った話じゃないのかも知れませんね。

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コメント

偶然ですが、最近「悪」と言う物を考えていました。
日本語や中国語は、文字に意味が隠れていたりします。
「悪」とは「亜なる心」。つまり、違う意見や考えを敵対視する事ではないでしょうか?
お互いに相手の事を理解しようとしないで、自分のエゴを通そうとするから、他者を「悪」と呼んでいる気がします。
仮面ライダーも、ショッカーの将軍に「ショッカーが世界を統一したら、どんな良い事が有るんだ?」と理解のある質問をした覚えは無いはずです。
まぁ、ショッカーも説明会を開いていない様ですが(笑)

ショッカーの怪人とかは、自分の生殖能力すら捨てて人口問題に貢献しているように見えるのは、私だけかな?
「自由」を建て前に目的を失った混沌なる社会に新たなる秩序を~って私はヴァンプ将軍(サンレッド)かぁ?

投稿: 146 | 2011.10.17 18:32

 あー、……おー。なるほど。その視点は初めて聞きました>悪とは亜なる心と見つけたり いろいろと納得。ううん、このテーマはまだ掘り下げてみたいですね。

 ショッカーの説明会。「ぽちょむきん」で悪の秘密結社(復活企画中)が、投資家とか株主の評価を気にしてるシーンを思い出しました(笑)。

 結局、手段がまちがってるから目的もまちがってるはずだ、って言う風になっちゃうんですよね。やられた方からすればそりゃそうなんですが。
 すると手段なら全うならいいんじゃない? ってすると、人間さらって改造したりしなくなるので、そもそもヒーローが誕生しなくなる。ままならぬものだと言うべきか、うまくできていると言うべきか。

投稿: sn@散財 | 2011.10.17 22:54

ヒーローを作る為に悪の組織を作るってネタも、タイガー&バニーでありましたね~

投稿: 146 | 2011.10.17 23:34

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