ローマ法王の休日、あるいは只一つを貫いた人生の果ての果て。(☆☆☆)
そんなつもりじゃなかったのに、なぜか法王になりました。
先代法王の帰天を受け、招集されたコンクラーヴェ。300有余の枢機卿から新たな法王を選ぶ大選挙、決着するまで外部との連絡は一切禁止と言う厳しい代物。
票は割れ、またも割れて。有名無名、集まった枢機卿の考えは、しかし一つにまとまっていた。神様、どうか私になりませんように。
神のご意志か人間の合意か。とうとう決まった新法王。それは今まで信仰一筋に生きてきた、万事内気で控え目な、生真面目な老枢機卿・メルヴィルだった。
あれよあれよと新法王の装束を着せられ、同僚だった枢機卿達にひざまずかれて。大歓声を上げる信者達の待つバルコニーに上がり、信者達を祝福する晴れのお披露目に向かうはずだったメルヴィルは、感極まって思わず叫んだ。ダメだ! やっぱ無理!
--息を切らせて全力疾走、システィナ礼拝堂に立て籠もってしまったメルヴィル。突然頭上にのしかかってきた、あまりに巨大で重すぎる期待と責任から逃げ出してしまった彼、しかし困ったのは枢機卿達-- コンクラーヴェは終わっていないので、帰るどころか外出すらできない-- に、ヴァチカンの報道官。
どうにかその場はごまかして、鳩首協議に取りかかる。スイス傭兵に精神科医まで巻き込んで、世間をごまかしメルヴィルを宥め、なんとか事態の打開を図るも、よかれと思ってやったことがあれよあれよと裏目をついて、とうとう新法王はローマ市内に逃げ出してしまう。
外の世界の孤独な法王、ヴァチカンから出られない中の世界の枢機卿達。待つ者と待たせる者、それぞれの姿を交互に描きながら。過去を、夢を、ありえたかも知れない人生を見つめながら、メルヴィルは自分と神について、責任と信仰について、静かに沈思黙考していく。
必死の猶予が終わるとき、始まりの場所へとメルヴィルは戻るのか。それとも、果たして。
そういうわけで、ローマ法王の休日を観てきました。
暖かい雰囲気で包まれた映画で、くすりと、時にブホッとできるコメディであり。痛みを感じさせない残酷さがあり、すべての人が、真面目に最善を尽くそうとするのに、結局はなにかがうまくいかないアイロニーがある。
そこに作為的な偶然はあまり感じられず、真面目に、今の状況下に最善を尽くした結果、なにかがおかしな方向に転がっていく、そんなおかしみとアイロニーが、そこかしこから漏れてくる映画でありました。
物語は中盤から、ローマをひとりで放浪するメルヴィルと、メルヴィルがいないせいで、いつまでもヴァチカンから帰れない世界各国の枢機卿の話になっていくのですが。このあたりの切り替えの融合している展開、そしてなりゆきでここいらの騒ぎに巻き込まれてしまった、ナンニ・モレッティ自ら演じる精神科医のやりとりは、会話の間といい、顔芸といい、実になんていうか、おかしみに溢れています。
それにしても、少し背筋に冷たいものが走るのを感じる。暖かい雰囲気と、おかしみと陽気な人々の影に、不思議な残酷さを感じる、そんな作品でもあります。
この映画は、観たいと思っているものを、観る人がさまざまに見いだす、そんな感じの映画なのかも知れません。さきほどのモレッティ監督演じる精神科医は、鬱病の専門家であり、それがゆえに聖書の記述から鬱病の病理に適合するものを次々と見いだしてしまう。中途の物語に、そしてラストシーンに、それぞれが色んなものを見いだしてしまう。そんな映画だったのじゃないかなあ、と思います。
あるいは、この映画を観ても、そこに何も見いだすことはできないのかも知れません。それでもいいのだと思います。ユーモアと愛情に溢れている、ちょっと変わった作品ではあるのですから。
常日頃、飛んで走って爆発して、みたいな映画ばっかり観ているだけに。なんとも、不思議な。不思議な気分になる映画でありました。
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