ニンジャスレイヤーより、アベ一休「スシを食べすぎるな」に関する一考察(☆) #njslyr
骨子になる部分は、ほとんどニンジャスレイヤー@wikiのアベ一休の項目にすでにあるわけですが。
まあ僕が思いつくくらいのことは、そりゃあすでにどなたかが思いつくものであるなあ、と感歎した次第なんですけども、書籍版で久々に再読して、いろいろ思うところがあったので、一応私案などいろいろ。
【9/30追記:誤字を直したり、内容が変なとこを直したりしました】
えー、まず前提として。アベ一休と言うのは、小説「ニンジャスレイヤー」の作中に登場する架空のバンド。「スシを食べすぎるな」と言うのは、彼らの代表作と言うか、(初登場の時点で)唯一登場している楽曲です。
作中では、初期のエピソード「キックアウト・ザ・ニンジャ・マザーファッカー」に登場。この話の主人公ギンイチに対して、非常に重要な影響を及ぼす役割を担っています。
歌詞については、wikiの項目にも引用がありますし、別に短いものなのですが、本編のうちの1ツイートにまとまってますので、そっちをご覧下さい。
はい。これだけ見ると、単に回転寿司が来なくてブチ切れているだけの歌詞に見えますし、たぶん実際そういうものじゃないかと言う気がしますけども。
これはよくよくほじくり返すと、いろいろと面白い意味と言うか、妄想の余地と言うか、そういうものがありそうな気がしてきます。
はじめから一歩後退して、ちょっと歌詞の背景から見てみましょう。
まずは回転寿司について。このニンジャスレイヤー世界においての回転寿司は、僕らの現実におけるそれとは、若干、なんというか、位置付けが異なります。
現実における回転寿司は、恐らくもっとも安価に寿司を口に出来るサービスのひとつ、と言っていいと思います。もっとお金がある人は回らない寿司に行ったりするわけですね。
しかし、ニンジャスレイヤー世界では、若干事情が異なります。別のエピソード「レイジ・アゲインスト・トーフ」にて言及があるのですが。「無人スシ・バー」と言うカテゴリが、回転寿司とは別に存在するのです。
この無人スシ・バー、言葉は悪いですが、所謂安かろう悪かろう、と言う寿司のサービスとして紹介されています(これはこれで、また非常に趣き深いのですが)。それに対して回転寿司は、「老人たちが好む古き善き~」「笑顔と暖かみ」と表現されています。
つまりは回転寿司はサービスなどの意味合いにおいて、最下位ではなく、そこそこのグレードにある存在。お値段もそこそこの存在。
もっと露骨に言えば、決して安かろうのチェーンとは言い切れず、そこそこ余裕がある階級が通う場所である。と、まずは解釈していいと思います。
(ちょうどこれを考えていた時期は、第三部エピソードの連載でスシ勝負をしていたので、このあたりの事情も後々考慮していきたいと思います)。
別の方向から補強を試みると、この曲のライブをしていたバー「ヨタモノ」には、進学校に通うイチジクや、その不良の友人が足繁く通っていました。
とすれば、彼らに共感を持たせるような音楽を行っていたアベ一休も、同じような階層の出身、と言える目はありそうです。
反体制的な音楽とはいえ、音楽を趣味とし、さらにまた稼業とするに至るまでには、それなりに安定的な経済バックボーンが必要でしょう。同じグレるにしても、実家の経済事情によってグレ方は異なってくるはずです。ましてネオサイタマのような、露骨な格差社会ではなおさらでしょう。
「モンティ・パイソン大全」の言葉を借りれば、「特に明るい未来が待っているでもなく、困窮しているわけでもない(つまりグレる程度に生活に余裕のある)」若者、と言うわけです。まあ、そこまで言わなくても、音楽やるにはお金かかりますからね。楽器がまず高いし、オコト壊してるし。いろいろあれこれ。
さて、この手掛かりから、「アベ一休は(あるいはそのターゲットは)経済的に安定した階級の若者」、と言う前提を作れそうです。この視点から、うがった態度で歌詞を見直してみましょう。
彼は回転スシに行きます。そこには何の疑念もありません。彼らの階級と教育からすれば、スシを食べに行くのは、当然のことながら無人スシ・バーなどではなく、回転スシでなければなりません。
回転スシに行く以上、「彼」は、スシを食べに行っているわけです。つまりは「彼」は、スシを食べる意志と、そこに払う対価とを備えている事になります。しかし、彼はスシを食べる事は出来ません。回ってくるのは空の皿だけ。
なぜなら、彼が食べるはずだったスシは、すでに「イタマエの前に座っている奴」に食べられているからです。
ニンジャスレイヤー世界における回転寿司店のシステムは正直よくわかりませんが、まあ、いくらなんでも、寿司を食べないで金だけ取られると言う事はないでしょう。
つまり、彼は金を払えていない。金を払う意志も、リスクを取る意欲もあるのに、それでもなお、寿司が回ってこない、と言う事になります。
「彼」がいわゆる余裕のある階級の一員であり、将来に思いを巡らす若者であろうと考えれば、その比喩は明白でしょう。
「スシを食べる」ことは社会に参加する意思、労働する意志、あるいは政治に参画する意志でありましょう。彼はそれに対する意志も、参加しうる能力も備えている、と自負しています。彼はまさに、「スシを食べる」意志を持って、回転寿司店と言う社会に足を踏み入れました。
しかし現実は、彼は挑戦のチャンスすら与えられる事はなく、ただいたずらに、備えたリソースを死蔵するばかりの結末になります。「イタマエの近くの奴」、つまりは、社会にすでに存在する既得権益者、それは例えば大人であり、すでに社会の要地を占めている老人達と言う事になるのでしょう。
板前が握り、展開する世界。それはすでに、先に店に入り、今もなおその場所を占めている者=社会を独占する老人達に牛耳られており、寿司は彼らに食べられてしまう。社会に参画する意欲も、それに足ると自負する能力も備えていながら、彼らの前にはすでに食い尽くされたチャンスしか回ってこない。そんな若者の陰鬱が、シャウトに込められていると考える事もできるでしょう。
しかし、本当に面白い、興味深い、と思ったのは、このあとです。
「彼」は叫びます。繰り返し叫びます。スシを食べすぎるな! と。これまでの推察を踏まえて、この言葉を捕らえると、非常に屈折した、割り切れない何かをここに見いだすことができるのです。
「彼」は、奴等をインガオホーしてスシを奪ってやる、とも、俺がスシを食いつくす立場になってやる、とも歌ってはいません。
前者は枠組みを暴力で破壊する、要するに革命を意味し、まさにアンタイセイです。後者は体制の中で成り上がってやる、「奴等」の場所に「俺」が座ってやる、と言う意志で、体制内の下克上です。
どちらも不満の意志を上昇志向に暴発させていますが、アベ一休は、そうは歌っていません。
スシを食べすぎるな、と歌っているのです。
「彼」は、誰に呼びかけているのか? イタマエの近くに座っている奴に、ではないでしょう。怒りを込めてぶちまけるには、スシを食べすぎるな、と言うのは、いかにも理性的で中途半端です。てめえはスシ食うな、俺にスシをよこせ、と訴える方が、より直裁的でしょう。スシを食べすぎるな、と言う叫びは、あまりにもwin-win的です。
すでに有利な地歩を得ている相手に、スシを食う事をそれでもなお認める、その上で利益の再配分を求める、というのは、相手と利益を折半しようという、積極的に政治志向と言うか、現実への妥協的な立場にほかならないでしょう。こういうことを、怒りに拳を振り上げた人間が言うでしょうか。
より身もフタもない解釈をするなら、「彼」は、結局叫ばなかったのでしょう。「スシを食べすぎるな」と言うのは、結局は声にならなかった叫び、言おうと思ったけど諦めた、意図せずして内在化されてしまった叫びなのかも知れません。
スシを食べすぎるな、せめてそう言いたかったけど。繰り返されるあのシャウトは、そんな、なんとも言えない屈折した感情の産物であるのかも知れません。
それは体制に苛立ち、既得権益に苛立ち、要するにありとあらゆるものに苛立ちながら、それらと調子良く折り合いをつけて生きていこうとする。否、生きて行かざるを得ない。そんなカチグミの子弟達へ向けられた、予め定められた負け犬達への哀歌なのかも知れません。
それは自分の所属する階級への絶望感の吐露であるかも知れません。アベ一休が自分達の「信者」に向けて放った、入り組んだ方向に屈折した皮肉なのかも知れません。
なんにせよ、同じエピソードの中で語られる、ギンイチの両親の有り様を、そこに重ね合わせる事もできるのでは、と思うのです。
反体制のパンクスが、歌詞の中で節度を求める。
考えてみると非常に興味深いのかも知れないなあ、と、妄想を一段階強くしてみた感想でした。
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