依存と離れとニュートラル。(☆)
亡父は真面目な顔をして冗談の好きな人でしたが、してみると昔に聞いた「世界最古のくさび形文字が刻まれた石版を解読したら、「近頃の若い者は」って言う愚痴が書いてあった」と言うのも、たぶん冗談の類だったのでしょう。
とまあ、なにもそこまで遡らなくても。ここ近年、若者の何々離れや、翻って若者の何々依存、と言うのは、耳にする日も多い単語ですなあ。
若者のカテゴリにはお世辞にも入らない自分ではありますが、こういう話を聞いていて、ううん、と首を傾げてみました。
思いつくものを列挙してみましょう。若者の活字離れ、新聞離れ、車離れ、CD離れ、選挙離れ。最後のはちょっとこの趣旨と違うな。
それはともかく、こういう場合、何を以て「離れ」と見なすのでしょうか? 感覚的なものはもちろんあると思いますが、経済的な推定、と言うのが多いのではないかと思います。まあ難しく言わなくても、車が売れないから車離れ、新聞が売れないから新聞離れ、CDが売れないからCD離れ。選挙は売れ…… 投票率は売り物じゃないしなあ。この話はまたこんどで。
一方で、何々依存、と言うのもよく聞きますね。スマホ依存なり、ネット依存なり。こちらが語られるのは、経済的な側面ではない事が多い気がします(全く無いわけではありません。昔のパケ死やソーシャルゲームの課金などがそうだと思いますし)。むしろそれは、道徳的な面、道義的な面、あるいは事故や事件と言った側面で語られる事が多いのではないか、と思います。あ、そうか。課金問題なんかは事件的な側面もありますよね。
しかしこれは、妙なダブルスタンダードの気はします。たとえば車離れ、とは、車が売れない事を意味するのでしょうけども。それはかつては、車が売れていた事を意味するのだと思います。そういう言葉があったかどうかは判りませんが、かつての社会は車依存であり、新聞依存であり、あるいは活字依存だったのでしょう。選挙依存と言う単語はぞくぞくするまずい感じが漂っているので、こんど改めて考えるとして。
車が売れない、新聞が売れない。それは言うなれば、「車依存からの脱却」、「新聞依存からの脱却」であり、依存状態を抜け出した、と言う意味では、道義的には喜ぶべきことなのではないでしょうか? また逆に、スマホやネットが、直接的に、あるいはトリガーとなって、大きく経済を転がしているのは事実ですが、そのことを以て、「スマホ離れを予防しなくてはならない」と言う論調はあまり聞いた事がない気がします。
煎じ詰めると当然過ぎる結論になってしまうのですが。依存や離れ、と言うのは、時代とともに社会構造が変わり、消費者の嗜好も変わり、その結果、従来の産業が生産過多になり、新たな産業が需要を増している、と言う事を差しているに過ぎないのだ、と思います。
車離れに苦しむ会社は、かつて車依存社会に過適応した会社であり、活字離れに苦しむ企業は、かつて活字依存の時代に過適応した企業だったのかも知れません。
どんな業種にも、いずれ来るべき「離れ」の冬に気付き、それに備えることができなかった。今もまだ、夏への扉がどこかにある、と固く信じている、あるいは信じざるを得ない。そんな心の傾きが、依存はともかく、離れと言う言葉には込められているのでしょう。
意識してる以上に、認識はセンターからぶれているもので。それはもうなんかしょうがないことなので、せめて補正方向に視点を方向けて、いろいろものごと見たいな。と、そんなふうに思っている昨今です。
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