ふたつの新潟・私録沼垂新潟興亡記【明治時代・1~沼垂駅爆破事件】
時代は変わり、このあたり一帯は新潟県に、そしてその中心地である新潟周辺は、新潟市となりました(名前が落ち着くまでにいろいろ変遷があったみたいですが)。
北海道の開拓、さらに漁場が開けるにつけ、新潟は貿易港としてよりも、北洋漁業の根拠地として大きな繁栄を遂げ、ともかく海の町、港町であり続けました。そして沼垂は、変わることなく、移転を重ねた末の土地に、信濃川の対岸に位置し続けていました。
一衣帯水とは言うものの、維新以来の信濃川を挟んでの、沼垂と新潟の対立は長く続きました。それが大事件へと発展したのが、明治30年、1897年11月11日の北越鉄道爆破事件でした。
そもそも、国の計画では、鉄道は長野から直江津までしか延びない計画でした。
それじゃあ困るって言うので、民間有志が立ち上げた鉄道会社が、北越鉄道です。国が線路を引きそうにない直江津以北に鉄道を引くことが、その目的でした。
南側は、国鉄の駅のある直江津から長岡まで引く。それはそもそもの目的通りなので良かったのですが、もめにもめたのが、鉄道の北側の起点でした。すなわち、沼垂側を起点とするか、新潟側を起点とするか、と言う問題です。
このときより以前、1886年には、信濃川には萬代橋(初代)がかかっていましたが、それでも川幅は1kmもありました。鉄道を通すほどの鉄橋を建築しようとすれば、どれほどの予算と時間がかかるか判りません。
東京にいた北越鉄道の出資者は、早期の着工、そして開通のために沼垂駅を起点とすることを要請し、一方で新潟の有力者達は、新潟側、せめて萬代橋のたもとまで延伸して、新潟を起点としたいと譲りませんでした。そこに積年の沼垂と新潟の対抗心が積み重なり、誘致合戦は激化します。
新潟市民の会社への苛立ちが頂点に達し、16日の開業を間近に控えた沼垂駅で起きたのが、鉄道爆破事件でした。新潟派の活動家達が、桜井市作の計画のもと、開業を間近に控えた沼垂駅への物理攻撃を試みたのです。
恐らく、手投げ弾かなにかを投げたんじゃなかろうかと思いますが、爆破は実際に実行されました。新栗ノ木川鉄橋、沼垂の機関庫、それに貨物庫などが被害を被りました。
爆破と言うと、いかにもハリウッド大爆発でものものしい響きですが、実際の損害はそれほどでもなかったのでしょう。結局、北陸鉄道は計画から4日遅れの20日に開業。首謀者の桜井市作はほどなく逮捕され、懲役七年を言い渡されました。
この爆破の影響がどれほどあったのかは判りませんが、ともかく、こののちも新潟側の鉄道誘致の運動は続きました。10年以上経った1904年になって、ようやく新潟駅が開業しました。萬代橋の東側ではありますが、ともかく新潟に最寄りの、新潟の名を冠した駅が誕生したのです。現在の新潟駅からは、若干ずれたところにありました。
沼垂駅を爆破し、実刑判決を受けて収監された桜井市作。すでに何度か書いている通り、というか改めてびっくりする話ですけども。この人物は出所後(あるいは事件の前かも知れませんが)、自らの新聞社を持ち、政敵を風刺する新聞を発行するなどの政治活動を行い、ついには、八代目の新潟市長に選出されています。(任期1916年~1919年)。爆破事件から約20年ののちのことでした。
爆破事件を計画し、実際に実行に移して収監された人物が、市民の支持を受けて市長へと選出される。市報に新潟市長がコラムを書いている通り、これが大正時代になってもなお、沼垂と新潟との感情的なしがらみが根深かった事の、なによりの現れなのでしょう。長く続く対立は、年号が変わってもなお、残余しつづけていたのです。
後年、桜井市作は、業務上横領の罪で起訴され、新潟監獄に収監されます。
裏付けのある日付が取れないのですが、どうも市長としての任期中に起訴され、収監されているような気配があります。そして没した日も、収監された日からそれほど離れていないようなのですが……。
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