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2013.04.07

ふたつの新潟・私録沼垂新潟興亡記【明治時代・2~萬代橋、そして沼垂町合併】

 しかし、新潟と沼垂、二つの町の歴史には、大きな変化が起きていました。長い長い対立の歴史に、ゆっくりと、しかし確実な和解をもたらしていったのは、文字通りの意味で、ふたつの町に掛かった架け橋でした。
 物理的な橋です。

 萬代橋。川幅1kmにも達する巨大な信濃川に架橋されたこの橋は、新潟日日新聞の社主・内山が計画し、第四国立銀行の頭取、八木朋直の出資により建造されました。なんと国の建造でも政府の建造でもなく、個人の出願、さらに個人の出資で建造された、はっきり言えば私道、私有の橋です。
 個人の所有物であり、ゆえに有料であったこの橋は、便利ではあったものの不評でもあり、県は結局、橋を買い上げて、ついで通行料の無料化を行いました。紆余曲折はどうあれ、信濃川の両岸の町、新潟と沼垂は、ようやく歩いて渡れるレベルの地続きとなったのです。

 こののちも、先程述べた通りに、鉄道爆破事件の発生など、感情的な対立は続いていました。しかし、橋の完成により、人の往来、経済圏の一体化は、徐々に徐々に進んでいく事になりました。
 やがて初代萬代橋は、1908年の若狭屋大火で消失してしまいましたが、すでに新潟と沼垂の双方にとって、萬代橋はなくてはならないものになっていました。早くも翌年の1909年には、初代よりも幅広となって改良された、二代目萬代橋が再建・開通しています。
 橋を伝っての人と物資の往来は、さらに拡充していき、新潟と沼垂は、次第にそれぞれの経済圏に依存するようになっていきました。
 今日の信濃川にかかっている萬代橋は、さらにのち、1929年に建造されたものです。建造から80年を超えた今でもなお、コンクリート作りの橋が信濃川にかかる光景は、堂々とした美しさを称えています。

 そして最終的に、大正3年、1914年。新潟市は沼垂町を合併しました。
 沼垂と言う名前は地名にこそ残りましたが、自治体の名からは姿を消しました。桜井市作の当選がこの2年後のことであることを考えると、両市の感情的なしがらみが、この時点で完全に片付いた、とは考えにくいものはありますが。この両市合併は、長い長い「二つの新潟」の歴史が、一つの流れへと合流した、その瞬間なのだろうと思います。

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