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2013.04.07

ふたつの新潟・私録沼垂新潟興亡記【江戸時代・2~沼垂の受難、天領の新潟】

 この沼垂の受難は、その演出方法も含めて、みなとぴあで我々が大変興奮した一幕であり、そしてそもそも、沼垂の歴史に興味を本格的に抱いたのも、あのみなとぴあで見た、短い(でも5分くらいある)ワイドショー的演出の解説ビデオが原因だったのでした。
 新潟に行く機会がある方は、ぜひみなとぴあのこのビデオは見ておくべきだと思います。

 沼垂に一体なにがあったのか。それはざっくり言って、五十年弱の間に繰り返された、度重なる町そのものの移転と、それと並行して行われた新潟との間の三度の訴訟。そしてそのすべてにおける敗訴でした。

 対馬海流の潮の流れは南西から北東へと動いており、その潮の流れに引きずられるように、川の河口は東へ東へと徐々にずれていく、と言う仕組みになっているようです。
 強くぶつかる潮に削られ、河口の東側の土地は少しずつ削られていきます。まったく文字通りの意味で、町が削られ、水没し、やがては無くなっていってしまうのです。

 事の起こりは寛永年間。洪水の結果、川の流れが合流し、信濃川と阿賀野川の河口が、ひとつに合体してしまった事にありました。沼垂は、肝心の川から離れてしまったのです。
 肝心の川が移動してしまっては、港は役割を果たせません。港町・沼垂は大きな決断を強いられます。それは、新しい河口に沿って、町そのものを移転する、と言う決定でした。
 信濃川の西側には、すでに新潟があるため、沼垂はまず信濃川の中州の島へと移転、そして間を置かず、信濃川の東側の土地へと移転します。
 しかしいずれの土地も、信濃川に浸食されて、とんでもないスピードで土地が削れ、失われていきました。
 沼垂は対策として、新たに水の抜け道となる水路を掘り、これを港とする計画を立てます。しかし、これに待ったをかけたのが新潟でした。信濃川の水流が減少するから、と言う申し立ては、江戸での裁判に持ち込まれ、その結果は新潟の勝訴。
 「前例がないから」と言うのがその理由だったようですが、長岡藩と新発田藩の格の違いも、その遠因だったのでは、とも言われているようです。先にも述べた通り、新発田藩は越後では珍しい外様大名であり、一方の長岡藩は徳川家譜の大名でした。

 ともあれ、打って出た策に横槍を入れられ、最後に沼垂町が移転した先が、現在の沼垂のあるあたりでした。しかし移転に継ぐ移転で地力を失った上、沼垂は相次ぐ訴訟にも負け続けました。信濃川の中州にはたびたび新しく島が出来るのですが、この島の所有権を新潟と争って敗北。このときは所有権争いの最中、片方の住民が抜け駆けして畑を作ってしまった、と言う話もあったようです。
 そして弱った沼垂に、ライバル新潟は止めを刺しにかかりました。新潟は沼垂に対して港の使用料を要求。沼垂はこれを拒否し、みたび訴訟となりますが、この訴訟でも沼垂は敗訴。
 土地を削られ港を奪われ、とうとう沼垂は港としての、貿易の中継地点としての機能を失ってしまいました。以後はわずかに、新発田藩の物流拠点として、その活動を継続していくことになります。

 こうして新潟は越後随一、日本海の巨大貿易港となりました。
 その機能と収入は多いに長岡藩を潤しましたが、じきに藩は新潟港からの利潤に依存するようになり、新潟の負担は日ましに増していきます。ついには新潟の住民達は打ち壊しを実行して長岡藩に反抗、新潟明和騒動を引き起こします。
 やがて時代は下り、商人の土地、貿易港として経済的に爛熟を迎えた新潟は、裏の顔をも持つようになっていきました。抜け荷、すなわち密貿易の拠点としても、機能していく事になったのです。
 すでに幕末の風は吹き始めており、抜け荷の震源地は薩摩藩でした。商人達により、琉球から薩摩に渡り、そして日本海の物流拠点である新潟へ。密貿易の重要な結節点として機能していた新潟ですが、幕府もまた、その闇経済の流れを追いかけていました。
 難破事故などの偶発的要因も重なり、新潟は二度に渡って密貿易への荷担が摘発。有力な商人達が罰せられる事態となります。

 抜け荷を押さえるため、幕府も本来であれば薩摩藩を罰したかったのでしょうが、幕府はそれよりも、出口を押さえる戦略を取りました。新潟港を天領、すなわち直轄地としたのです。
 かくして経済拠点・新潟は長岡藩から召し上げられ、幕府は新たな役職である新潟奉行を現地に派遣し、港を監督させました。
 ちなみに初代の新潟奉行は、川村修就と言う人物。この人物、もともと御庭番であり、新潟の抜け荷に目をつけて、自ら潜入してとして抜け荷の監視を行ったと言う説もあると言う、なんと言うか非常にフィクションっぽい、興味深い人物。
 この川村修就の持ち物は、のちに子孫によってみなとぴあに寄贈されているのだそうです。たぶん、僕らもそれと知らずに見てきたんでしょうね。

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