自負と毒と:『靴ずれ戦線』を読んだのち思ったこと。(☆)
「靴ずれ戦線」2巻を読み終わって、感想を書いていてふと思った事があったんですが。作品の感想とはちょっと離れてしまうし、とりあえず切り離して別のエントリにしておきたいと思います。
「大砲とスタンプ」も無論そうなんですけども。螺旋人さんの作品って言うのは、なんていうか独自と言うか、独特の世界があって。取り扱っている題材が、そもそも変わっている、って言うのはもちろん大きいと思うんですが。
あのほのぼのした感じと、ウェットじゃない残酷さが、普通に隣り合わせの同居、可愛らしいキャラクターがいて、そして死体の山がある…… 寝っ転がっている人間が山になっているのではなく、それが死体なのだと判る。たとえば唐沢なをきのギャグ漫画ほど記号化されているでもなく、もちろんグロ方面にリアルと言うわけでもない。この、なんていうかドライさ加減。不思議に突き放した感じと言うか、フラットな感じって、どこから来るんだろうか、とあれこれ考えていたのです。
思えらく、この人の漫画には、不思議なくらい説教臭さがないなあ、と思うのです。
独特な世界を描いているのに、というか、独特な世界を描いている人であれば。魅力を訴えようと言う意欲が変な方にはみ出ていって、独善さや積極臭さ、語りたい対象よりも、それを語ろうとしている自分自身、あるいはその主張を強く訴える状態に陥ってしまい、結果的に「語りたい対象」について語っていなかったり、あるいはその魅力を却って減じてしまう結果になってしまう、と言う事は、世間で普通によくある、そして多くの人が落っこちて抜け出したり抜け出せなかったりする、そんな陥穽ではないか、と思うのです。つまりどういうことかと言うと、と言うか。この表現がすでにして若干そういう感じですよね。
でも靴ずれ戦線からは、そういう説教臭さ、教えてやる、的な要素を、あまりにも感じない。
ユダヤ人への差別、途方もない数の戦死者、誰かの大切な人でも呆気なくかつ残酷に死に、そんな数字のひとつとなる。そうそう都合良く助かりはしない。たとえ他ならぬ魔女や魔法が介入したとしても。
それが戦争の現実である、とか書いてしまうのは、よくある話なのでしょうけれど。そういう話を、もの悲しく、愛情豊かに、説教臭さの微塵もなく書き出す、と言うのは。自分自身をよく見せたい、自分をより偉く見せたい、と言う願望よりも、描き出したいものをより描き出したい、と言う願望の方がより強いからなんじゃないだろうか。対象への愛情が自己愛を上回っているからの、自然のスタイルなのじゃないかな。と。
よく世間界隈で、「辛口のコメント」とか「毒のある表現」とかを(そういうものは特に自称が多い←辛口のコメント←自己言及)見かける事がありますが。そこにある毒とか辛口とか言うものは、要するに自負のはみ出した側面ではないか。その人は作品や作品で描きたいものよりも自分自身やそのプライドが大事なのであって、説教をする、自分がより偉い存在である、と言うタイプの欲求を満たすために、はみ出て持て余した自負を、毒とか辛口とか、そういう表現にすり替えているんじゃないかな、と思うのです。
そういうものが、まるでないところが、なんとも素敵で、かつ不思議でもあるな、と思うのです。
「大砲とスタンプ」の続きとか、色々これから読めると思うのですが、作品群の独特な魅力がどこから来るのか。これからも考えあぐねるだろうし、考えあぐねたいなあと。そんなふうに思った次第でした。
つまりなにが言いたいかと言うと、「靴ずれ戦線」はおもしろいなあ。と、そういうことであります。はい。
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