ふたつの新潟・私録沼垂新潟興亡記【はじめに~王朝時代】
沼垂。読めますか沼垂。
この言葉が地名であり「ぬったり」と読む事、現在の新潟市の一部であると言う事を知ったのは、三月に酒の陣で新潟に遊びに行った時のこと。「ぬったり、って妖怪の名前みたいな響きですよね」と言っていた烏羽さんは知っていた、と思うのですが。
どんなものかも全く知らなかった、この沼垂と言う地名。そこにどんなものが込められていて、いま新潟県と呼ばれている土地にどんな来歴があったのか。
観光の一環で訪れたみなとぴあ、新潟市歴史博物館で見たもの聞いたものに、あまりにびっくりして感銘を覚えたので。帰ってきてから調べた事と合わせて、新潟観光記に代えて、簡便にまとめておこうと思った次第です。
そもそも、そろそろきちんとまとめとかないと、またお蔵入りシリーズが増えちまいますからな! もういいかげんにしないと怒られますからね僕の脳内上司に。
まあそんなことはともかく。ふたつの新潟、とまずは大仰に題しまして、軽くまとめてみたいと思います。
いまの新潟市は、そもそも、ふたつの別々の町でした。
大雑把に信濃川を含んで西側、現在の新潟島らへんが、そもそもの新潟。そして東側は、これから問題にしていく町、ぬったりと読む沼垂です。
信濃川を挟み対峙する二つの町。隣同市が仲良くすることがどれだけ難しいかは、ご近所づきあいから国際情勢に至るまで、よくよく大小のスケールで解る事だとは思いますが。いまはひとつの橋の両端、ひとつの都市であるこの二つの町は、歴史的に大変仲が悪かったようなのです。
それは町の成り立ちに始まり、過去の歴史で築き上げられ、近代のある事件で頂点に達しました。ついには「新発田に嫁をやるな」 --沼垂は新発田藩の港町でした-- と言う言葉が膾炙するほどに膨れ上がったのでした。
さて。
いま新潟と呼ばれている地域は、かなり広大な地域を含んでいます。上越、中越、下越、と言う区別は、それぞれ京都に近いかどうかが名前の基準となっているわけですが。このうちの下越。いまの新潟市の辺りは、二つの巨大な河川、信濃川と阿賀野川とが日本海に注ぐ地域でした。
とはいえ、今の新潟平野は、古代から存在したわけではありません。海の底だった巨大な河口に、長い長い時間を費やして、二つの大河の運んで来た砂や土が堆積していくことで、やがて新潟平野が完成していったのです。
さて、そうなるのもまだまだ先の話です。人は水の縁に住むもの、二つの大河の河口あたりには、弥生時代に入っても、縄文時代の暮らしを、そのまま守っていた人々が暮らしていました。
その暮らしの中に遙か遠方から入り込んできたのが、大和朝廷の王権でした。日本海の海岸線沿いに、対馬海流に乗って北上。沿岸航海をの結果、必然的に見つけた、この大河の河口に目をつけたのでしょう。朝廷はここに城を設け、新たに見つけたフロンティア開拓の拠点としました。日本書紀に現れる渟足柵、ぬたりのさくです。
のち、新潟と呼ばれる事になるこの湿地を、古代王権は未知の土地、内陸進出の足がかりとしました。かくして彼らはまだ見ぬ土地へと二つの大河を遡り、信濃川流域と阿賀野川流域に、それぞれ進出していったのです。
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