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2017.01.05

超人は人か人ならざるか、及びスッパマンと言うビザロについて。(☆☆☆)

リンク: スーパーマン黙示録 | コラム | シミルボン.

 『ペロー・ザ・キャット全仕事』とか『解剖医ハンター』の作者、吉川良太郎氏によるスーパーマン評。
 言及されている作品が、読んだことがあるものが多いからかも判りませんが、すこぶるの納得度の評論でありました。書籍ではないが、と断りつつも、アニメ版ジャスティスリーグにも言及しているのが嬉しい(はっきり言及はありませんが、まず間違いなく「より良き世界」のことでしょう)。
 それにしても、キム・ニューマンにスーパーマンネタの作品があるとは知らなかった(クラーク・ケントは「ドラキュラ崩御」でちらっと出てきますけど)。探して読んでみよう。

 さて、こちらを読んで、ふと考えをめぐらすに。ここからぜんぜん違う話です。

 スーパーマンを筆頭に、近年アメコミは映画化、ドラマまで含めれば映像化に恵まれ、日本での知名度露出度もぐぐんと上がりました。数年前に比べれば、アメコミの知名度や認知度は非常に高まったのだと思います。
 その一方でしかし、「アメコミは単純」「ただのステレオタイプの勧善懲悪」「ただのアメリカ万歳」「ただのムキムキマッチョがタイツ一丁で暴れるだけ」と言う偏った意見が、アメコミの知名度が低かった昔に比べて、さて、減じたかと言うと、なかなかそうとも言えないような感覚はあります。むしろ近年、日本のマンガやアニメを称揚するのと対比する目的で、その風潮は一定の勢いを保っている感を受けます。
 しかしここに、どうにも割り切れない疑問があります。アメコミを単純だ、と談じている人の多数派が、アメコミを読んで、その結果として単純だ、と断じているとは考えにくいものがあります。むしろ「読まなくても判る」、「読むまでもない」、と、判断を下していると考えたほうが分かり良いでしょう。ではなぜ、読んだことがなく、良く知らないものをして、それがどのようなものか、と判断することができるのか。

 ここに。パロディが悪さをしているのではないか、と、そういう考え方もできるのではないかと思います。
 スーパーマンを再び例に取るならば。クリストファー・リーヴ主演の、最初の映画が公開されたその当時。公認かそうでないかを問わず、マンガなり小説なりに、さまざまな「スーパーマンのようなもの」が溢れました。じゃあぱっと何か出て来るか、と言われると困りますが、一番有名なものを挙げるとすれば、「Dr.スランプ」に登場したスッパマンでしょうか。
 ただ単にキャラクターを借りて賑やかしたものから、本気でスーパーマンの有り様に挑戦を挑んだものまで。スーパーマンに便乗した、スーパーマンのようなものは世に溢れました。
 パロディは戯画化です。記憶に残るほど面白い戯画化とは、それは恐らく、邪気なく罪もない悪意から生まれます。強烈な光を放つ「本物」の影で、この程度であれば存在を許される、と言う暗黙の規定のもと、生まれて解き放たれた無数のビザロ達。

 そしてスーパーマンそのものの映画が途絶え、ヒーロー達の光が忘れ去られたのちも。
 Dr.スランプとともに、スッパマンが記憶されたように。それらを積載したさまざまな作品とともに、スーパーマンのようなものは、戯画化されたビザロ達は生き延びました。そして、彼らの戯画化された姿、パロディ化された姿だけを見て、以て、オリジナルもこのようなものである。このようなものであろう、と言う刷り込みだけが。見てきたように、見ていないものの価値を定めてしまっているのではないでしょうか。

 何にでも言えることですし、マイナスだけではなくプラスの評価でも、ありえることだと思うのですが。
 「素人には物事が単純に見える、単純に見えるから素人なのかな」と言う、どの本で読んだか忘れましたが、とても印象的な一言を以て。
 自戒の石として、このへんに置いておきたいと思います。

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